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No.104 1968年メキシコ五輪の「特異」なこと 1



1968年メキシコ五輪の「特異」なこと 1

第19回となった「高地」五輪は、10月12〜27まで開催された。 参加国112、総選手数6096人であった。この五輪での注目は、 なんといっても「陸上競技」である。なぜなら幾多の条件が重なり、 あまりに多くの世界新記録がうまれたことだ。 過去未来を通じて、一大会でこれほどの数の新記録が出ることは もうないだろう。 1、好条件 「高地メキシコシティ」は空気抵抗が低い。海抜2247mの高さは、 空気の密度が低いためだ。平地より1,5m近い追い風状態になると いう。その有利さから、現在は平地、高地と記録は区分けしている程。 ・・・ということは、400mでは1周常に追い風状態となる。 それを裏付けるコメントを、400mHの山崎君から聞くことができた。 「走ってると身体が動きやすい。スピードが上がった気がする」と。 加えて「ゴム製全天候トラック」の採用。100mで0,3秒以上、 400mでは1秒短縮が出切るといわれている。さらにすべりなく 弾むため跳躍、ハードルではさらに有効である。 2、量産の新記録 それらの影響をうけて生まれた世界新記録は、なんと100m、200m、 400m、400mH、800m、400mR、1600mR、幅跳び、 三段跳び、・・。それらは数字のみならず、様々なドラマを含んでいた。 3、人種差別 男子200mのメダリストである、スミスとカルロスの「祖国での人種 差別への抗議」が大問題となった。表彰式で国家演奏の時、黒い手袋を はめ怒りのこぶしを突き上げたのである。 IOCは「五輪に政治を持ち込まない原則を破った」と激怒した。 米国五輪委員会はすぐ、2人を選手団から追放、選手村から退去させた。 しかし、2位の白人選手も無言で抗議に加わっていたことはあまり 知られていない。その選手は、オーストラリア人だった。 ピーター・ノーマン。「自国の白豪主義に反対だからだ」豪州の アボリジニや非白人差別への批判を唱えた。 4、世界が震撼したボブビーモン 若干22歳のビーモンは、「僕はただ跳んだだけ。自分でも恥ずかしい くらいハイになってた。ボストン(米)と二人でがんばろうと言って たんだ。」踏み切った彼の身体は、まるで宇宙遊泳のごとく舞い上がった。 審判員の頭上を軽々跳び越え、9m地点に着陸した。従来の記録は 8m35である。それを55センチも上回ってしまった。 「奇跡」が起きた。地方の県大会ではない。五輪本番での大記録は、その後 23年間誰も超えることは出来なかった。(五輪記録としては現在も 残っている。ルイス、パウエルが引退したため、もう破られないかも しれない。ペドロソも下降気味) 5、背面跳び世界デビュー 五輪前年、変則的に頭から背中を向け、バーを越えるスタイルが完成した。 アメリカのオレゴン大学で、土木工学を専攻する「ディックフォスベリー」 であった。それまで2m21が最高だったが、人々は彼を 「フォズの魔法使い」と呼んだ。五輪当日、観衆はそのトランポリンの ようにはね跳ぶフォームに、釘付けとなった。ベリーロールの強豪達を、 あっさりと蹴落としていく。背面跳びに対する大観衆の応援に、 飲まれたのかもしれない。優勝を決めた後、全米新の2m24も 軽々クリアーし、世界記録に挑んだ。しかし3時間を越える長丁場で、 ジャンパーの脚は疲労の限界だった。 ・・・しかし正面跳びに始まり、様々な型を移り変わって現在。 主流はこの背面跳びになった。走り高跳びの「最終型」として、 今後新しいスタイルは出現しないと思う。 筆 のもと歯科 (07/2004) <<前の記事へ 次の記事へ>>