No.118 ミュンヘン五輪の息子たち2


ミュンヘン五輪の息子たち2

★ムーンサルト「月面宙返り」の奇跡 日本体操を語る上で「塚原光男」の名を欠かすわけにはいかない。そう、いまや全体 操世界的に革命を起こした「月面宙返り」の開拓者である。全盛を誇る体操日本では あったが、塚原は新技の開発に専念していた。当時は伸膝、屈伸の宙返りは一般的で あったが「ウルトラC」を生み出さねば・・・・ そんな時あるニュースがヒントとなった。アポロの月着陸である。人類が始めて目に する「無重力(1/6だが)」の浮遊する動き。これで塚原はピンと来た。・・・空 中で斜めにひねれば・・・アイデアが浮かんだ。しかしここで問題が。通常、ひねり の動きとは、動作を静止するブレーキの意味を持つ。つまり空中でひねるということ は、失速に拍車がかかり頭から墜落してしまうのである。マットの上ではあるが、実 際に塚原は何度も頭から落ちた。しかし本人は全く臆すといころなくトレーニングに 励んだという。 ★宇宙遊泳 ミュンヘン五輪はソビエトとの接戦になった。いつまでも日本に独占させない!ソビ エトのコーチは、実際に妨害的行為までしたという。日本とて毎回安泰で勝つわけで はない。ケガがつきものの体操は、常に捻挫、打撲のオンパレード・・・。しかし塚 原の演技に世界は驚嘆した。日本得意の鉄棒で、フィニッシュの大技で「ムーンサル ト」が披露されたのである。後方宙返りと、膝を抱えた斜めひねりのあわせ回転。全 世界が釘付けになった。「宇宙遊泳」と評された超技に、他国の選手はあきらめの ムード漂う。「す、すごすぎる・・・」場内の選手、コーチ一同が「ぽかん・・・」 と口をあけて塚原の鉄棒に見入っていたのだ。かくいう私も「すげ〜・・・」と興奮 していたのを覚えている。 塚原選手は鉄棒でもちろん金メダル。続くモントリオールも連覇したのである。 ★戦争の痛手 スポーツと政治は実際には切り離せないだろう。競技別世界大会はあっても五輪は国 別対抗であるからだ。「利害の無い対人関係」はありえないだろう。 戦争で日本の陸上は衰退してしまった。これはトレーニング方法や若者の人気、様々 な社会背景が影響したものであるから、決して日本選手の怠慢が原因ではないのはも ちろんだ。 同様に米ソ対抗が生んだモスクワ五輪不参加問題で、大きく日本スポーツは揺れた。 あれだけの勢いがあった日本体操界も大きく変貌した。最後のモントリールで金メダ ルをとってから8年経過していたため、全くの新メンバーになっていたのだ。しかし そのロス五輪は強豪である東欧、ソ連の欠場という副産物もあって幸い団体3位銅メ ダルを獲得できた。鉄棒も中山、塚原から森末まで4連覇(モスクワを除く)した。 4年後1988年ソウル五輪も「池谷、西川」のスーパー高校生の勢いあって3位を 死守した。 しかし鉄棒や個人の金メダルはついえた。 ★ミュンヘンの息子たち アトランタやシドニーになると、王国時代のJrが加入してくる。もはや中学生がムー ンサルトをこなす時代だ。息子・塚原直也選手は親子2代の金なるか・・・などとマ スコミの注目を集めた。しかしこれはトレーニングの障害になったことだろう。アト ランタで総合では下位入賞すらできない受難の時代に突入。シドニーではやっと団体 総合4位に帰り着くが、それでは何の評価もされない。塚原直也選手は鉄棒で8位が やっとだった。 ★体操日本再生は とはいえ先述したように、体操日本は復活した。種目別では銀一個、銅二個ではある が、最盛期の内容とはまだまだ比べようも無い。アジアでの北京五輪に向けて本当の 再生を図るだろう。 なぜ日本体操は再生し始めたのか・・・。それは協会の改革にあったという。役員を 一新し、コーチ陣も改選を施した。かつての名選手がそのままコーチに居座るのでな く、育成のうまい実績で選んだのだ。つまりどれだけの若手優秀選手を育てたか、を 重要視したのである。絶大な実績があるだけに、大変な大手術であったろう。 技術面では80年代流行った派手な技より、基本動作の熟達を中心に指導されたとい う。 資金面でも協会体育館資金数千万円をくずし、育成に投資したといわれている。 急成長を遂げる組織はしっかりしたリーダー陣が必須ということか・・・ 筆 のもと歯科 <<前へ 次へ>>