No.136 全国に挑む後輩たち8−4  「その輝き・閃光のごとし」


全国に挑む後輩たち8−4  「その輝き・閃光のごとし」

★ すべてをかけた最終マイル 総合優勝は群馬農大ニ高がトップで20点近く先んじている。 2位も10点以上開きがある。 さあ、問題は総合3位だ。埼玉栄を春高は2.5点抑えている。 マイルで栄の2着後ろまでなら逃げ切れる。 栄との間に2チーム入ると逆転され、総合4位に落ちる。 今年の春高リレーチームは競り合いに強い。大きな期待がかかる! スタート! 石川が飛ばす。みんな速い。当然50秒を切るくらいで持ってくる。 第二走者はリレーのスペシャリスト高橋大。 どのチームもニ走にはエース級を持ってくる。 ここで離されたらアンカーだけでの逆転は不可能なのだ。 好位置をキープして伊藤に。自然な走りを取り戻した伊藤は力走した! 奥岡は110mH3本こなしているが、それはどこも同じ条件。 個人種目のエースがアンカーには集うのである。 奥丘は400mHの記録から察するに400m48秒台の走力を持つだろう。 決してスプリンターに引けは取らない。 「あっ!」 他校がバトンをミスした!!一瞬スタンドが息を飲む! 奥岡は見事に3位でゴール。埼玉栄は優勝した。 この瞬間、0.5ポイント差で春日部高校が総合3位に決定した!! ★ OBの悲願「死んでもいい!」 つまり埼玉県で総合得点トップ高校に君臨したのであった。 「全国への最終予選」という過酷なレベルの戦いの中で、ポイントを 埼玉県で最多得点した学校ということだ。 杉崎会長は言った。 「総合得点で県で一番になる瞬間に立ち会いたい!」 そのみんなの悲願を最後のマイルで、大塚さい配で 現役後輩たちは演じてのけたのである。 たった0.5ポイント差で。何とドラマチックか! まるで演出のような、すべて計算されつくしたかのような劇的幕切れ。 ・・・大塚マジック。 旧制中学時代の岡田先輩が毎日のように応援に来てくださった。 今年80歳を迎えられる大先輩である。チームのテントで我々にその意気込みを熱く語った。 埼玉新聞を購入し、赤シャツの写真や記事をみて涙を流して喜んだそうだ。 「特に短距離が強いという事はチームとして素晴らしいことだ! こんな若い後輩たちの頑張りを見る事ができて、私はうれしい!いつ死んでもいいんだ!」 青春時代を自分と同じグラウンドで駆ける学生達の活躍を、 これほど多くの方々が熱い視線を送っているのかと、改めて感じさせられた。 いつコラムを書いているのか・・・という質問を良く受けるが、 「空いた時間を利用して」と答えるしかない。 うちのクリニックはヒマではないので、診察の隙間にわずかに空く 5分くらいの時間に、集中して繰り返しワードを打つ。 あとは深夜が多い。 従って、ワード変換ミスや、前後の話がつながらない箇所が、 多々あると思うのだが、ぎりぎりの状態でやっているので ご容赦願いたい。 診察に全神経を費やしているので・・・ ★インターハイに臨む後輩諸君へ 不肖ながら、我々の代(37回)も瀬上、戸嶋ら屈強なメンバーを揃えて インターハイ総合を狙った。(http://www.kasuriku.net/nomo/01.htmlに参照) 「100m、200m、400mR、砲丸、円盤で総合をとる!」 ・ ・・しかし高校3年の春、相次ぐ故障続出。 流れは全く変わってしまった・・・。 1984年秋田インターハイの結果は、「総合5位」。 総合優勝の奈良添上高校と7点差。 すばらしい好成績でもあり、「もしベストの状態であったら・・・」 とも思えた。 決勝の記録を見ても、決して届かない点数差ではなかった。 何よりも恩師・小原監督は「この代(37回生)が卒業するまでは 現場(母校監督)を続ける!」と周囲に語っておられたらしい。 それを知ったのは、我々が卒業してからだった。 さらにだいぶ時間がたってから、小原監督はこうもいっていたことを 知った。 「あまりにも忙しくて、(選手たちを)ちゃんと見てやれなかった・・・」と。 恩師は転勤を控え、様々な仕事に追われて多忙を極めていたのであった。 ・・・ぐっときた。 戦力的には全く役に立っていなかった私が言うのもなんだが、 心にずっしり響いた。いい加減だった自分の高校時代を悔いた。 この事が、現在の自分の生き方に大きく影響しているのは間違いない。 老婆心で申し訳ないが、後輩諸君に重ねて言おう。 全国に挑めるチャンスは、人生でそうはない。 と、いうより一生で一回あるだけでもありがたい事。 その環境を整備してくれた大塚監督に、両親に感謝しよう。 そして「全員陸上」で八月を迎えよう。 そのとき、千葉競技場にはそれぞれの思いを胸に秘めた幾多のOBが集うだろう。 半世紀以上にも及ぶ各々の青春がよみがえるのだ。 37回 野本 順一 <<前へ 次へ>>