No.138 全国に挑む後輩たち 9 赤き疾風 最終稿


2005年8月6日をもって千葉インターハイは終了した。 我が春日部高校陸上部は、校史を塗り替える結果を刻んだ 大会であったと私は思う。 このシリーズを読んで下さるのは、若き後輩諸君の活躍に 一喜一憂して下さる身内の方々。 その皆様に結果を詳細にお伝えせねばなるまい!・・・と、 使命感にも似た想いで深夜パソコンに向かっている次第である。 いつもながら中学生のような日記的文脈と誤字脱字の連続であるのだが、 これで最後だ。ご容赦願いたい。 ★インターハイの「暑さ」は別格 いつもながら、暑い日々だった。 いや、軽々しく「暑い」などと言うのは軽率だろう。 私は、たかが応援にかけつけた「外野」にすぎない。 当事者の選手は、そしてその心身の管理を数年間に渡って担った 大塚監督の心労は極限状態にあったはずだ。 かつて私も屈強な仲間を持ったおかげで「高校総体」に 二度連れて行って頂いた経験がある。 インターハイは本当に「暑い」のである。 当時、高校生だった身体からすれば、現在ほどは感じなかったろうが、暑い。 そして汗をかくたび疲れる。 これは「高校総体」独特の環境が及ぼすもの。 年間で最も高温多湿、慣れない立地環境と、長期の宿泊遠征日程が 大きく影響するのだ。 慣れた上尾競技場であれば、円滑にタイムテーブルに沿って行動すればいい。 集合場所への立地も、移動距離、かかる時間もわかる。 しかしインターハイでは、「キョロキョロしっぱなし」なのである。 ほとんど知った顔もなく、サブトラックで見慣れぬ団体と練習を供にし、 競技場の往復にすら神経を使う。召集所にいっても話せる知人はいない。 おまけに連日の食事も日常と違うもの。布団も違う。 私の思い出では、高校2年の名古屋インターハイは地下鉄を乗り継いでの 移動であった。名古屋瑞穂競技場では「ただいまの気温は37度を越えました!」 と場内アナウンスがあったのを覚えている。 高校3年の秋田インターハイでは入場行進のため、長い間炎天下で待機して、 試合の往復も暑くて「ぐったり」であった。 (当時、移動車にGPSナビゲーションはないから、地図を見ながら 時間も神経も使った・・・) 宿泊も開会式前日から最終日にまで及んだのである。 空気に敏感な出場選手なら、これだけで精神的に参ってしまうだろう。

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