No.150 「長嶋茂雄に会いたい」を読んで


「長嶋茂雄に会いたい」を読んで 昨年、春高陸上部の後輩たちが奮闘した千葉インターハイ。 それを直前に控えた2005年7月24日。 私は、大宮球場で開催された甲子園大会県予選(春日部高 対 昌平高)の5回戦を応援に行った。 なぜこの球場に脚を運んだのかというと、恩師・小原敏彦陸上部監督の著書 「長嶋茂雄に会いたい」(エコー出版)を読んだ影響だった。 そもそも私がコラムを勝手にも書き出したのは、 小原監督に頂いた「人見絹江の生涯 燃え尽きたランナー」を読ませて頂いてからである。 私的事でどうでもよいことだが、小学校と違って高校当事は 読書というものを全くしなくなっていた時期であった。 文章を読んで偶像、空想しあこがれる年齢は終わり、 怠慢な学生であった私には、教科書的な有名文学家や文豪小説に関心が持てなかったのだ。 しかし小原監督の小説を読ませていただいて、スポーツ偉人伝から再び心躍らせる文章に魅せられていった。 一番の理由は、自分が「弱者」であったからだと思う。 何をしても「すごいね」と賞賛をあびなかった私は、 ヒーローに憧れる気持ちが人一倍強かったのかもしれない。 小原監督の本を読んで「ああ、スポーツ超人列伝はかっこいい・・!!」と 素直に感激したものであった。 かといって強制的な練習を強いられたり、上下間の軋轢が強い学校だったら当の昔にクラブは辞めていただろう。 「自分で考えて、自分で動け」の精神や、競技的に強くもない私とよく遊んでくれた先輩後輩のいる春高陸上部は、 そんな私にぴったりであったのだ。 そこに原点がある。 ・・・以下、小原先生の小説より一部引用・・・ 今から50年以上前、甲子園を決めるための第35回関東大会がこの球場で開催されていた。 埼玉代表の熊谷高校と長嶋茂雄を4番に据えた千葉代表の 佐倉一高(現在の佐倉高校)が一回戦で対戦した。 長嶋茂雄さんが、世にその輝きを放った貴重な初戦となったのだ。 甲子園出場高校の熊谷は二年生のエース・福島が好調。 6回まで無失点の力投。対する長嶋はヒットを放が、4番打者として長打を封じ込まれていた。 いよいよ第二打席。 長嶋は、初球の真ん中ストライク、二級目は外角のボールを見送った。 カウントをつめるためエース福島は、決め球のシュートを渾身の力で投げた。 だが長嶋は待っていたかのようにバットをかぶせ気味に、鋭く回った。 「カキーン!」 誰もがその鋭い音に度肝を抜かれた。 球は恐ろしい速さでバックスクリーンに突き刺さった大ホームラン。 観衆はどよめいた。飛距離107m。昭和28年の高校生で、 ここまで飛ばせる選手は過去に存在しなかった。 「あのバッターは誰だ?・・・長嶋?・・」 当時、高校野球専門の記者はまだいなかったし、一回戦だったため新聞記者席はざわめいた。 しかし朝日新聞の久保田記者は直感した。 「・・・甲子園に無縁の高校、ノーマークのバッター・・・ ・・・長嶋茂雄・・・すごい選手がいるものだ・・」 その試合には佐倉一高は負けてしまったが、 久保田記者は長嶋の弾丸のごとき大飛球を大きく記事にした。 これが口火になり、長嶋茂雄ストーリーが始まっていくことになる。 久保田記者は「ダイヤの原石を発見した男」として有名になったという。 それから50年後、セピア色となったその長嶋伝説と同じ場所に立ち、 偶然にも我が高校野球部の後輩諸君が時を超えて同じように激闘を繰り返している。 年甲斐もなく感傷的になってしまった自分に、少々気恥ずかしくなった。                          高37回  野本順一 引用文献 「長嶋茂雄に会いたい」著・小原敏彦  エコー出版 追伸・同窓会で小原先生が講演なさいます。私もぜひ行かせて頂きたいと思っています。 (大学病院に呼び出されなければ・・・・) もちろんご存知とは思うが、春日部高校同窓会会長は陸上部の 荒木貞行 先輩である。 06年度同窓会総会(6月第4日曜) (第17回ホーム・カミング・デー) ▼ 06年6月25日(日) ▼ 講 演 会(音楽ホール)15:30〜 テーマ「ミスターの素顔〜長嶋茂雄の野球人生」      高10回・小原敏彦さん(スポーツライター、元春高教諭)

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