No.191 著・小原敏彦 人見絹江 生誕100周年「KINUEは走る」を読んで 1


この夏、世界陸上放映と同時期に恩師・小原監督の著書「KINUEは走る」を読ませていただいた。 私もこの年齢になってこそ分かる深みが加わって、今回も大変感銘をうけた。 私の診療待合室にも一冊購入し、置いてある。 小原監督の著書は「超人列伝」の原型だ。 「人見絹枝」という存在に大きくインスパイアされた結果、いまの陸上観や「コラム」があるといえるのである。 ★ 孤高の戦士・人見絹枝 現監督・大塚先輩と、かつて「世界記録・日本記録」について談義したことがあった。 「新記録」というものをグラフにする。まず縦軸を記録、横軸を継続時間。 線はなだらなか上昇線(新記録なので右肩上がり。 記録更新がなければ水平に終わる)を描くが、徐々に水平に近づく(記録の更新幅が少なくなるから)。 しかし、そのなだらかな記録更新ラインから「ポーン!と飛び出した新記録」というものが稀に生まれる。 「人見絹枝」という天才も、それに該当する。 ほかに例をあげれば、高校記録を出した当時の400mHの為末選手など。 現世界記録では女子の短距離(ジョイナーやコッホ)、男子の跳躍(ルイス、パウエル、ブブカ)の記録がそれにあたる。 1920年代、まさに日本にとって人見絹枝選手の活躍は、100年に1人出るか否かの超人的なものであった。 当時の国内の常識をはるかに越えた人見選手の身体能力。 走っても投げても跳んでも、国内で圧勝。 ざっと大きな試合だけあげても、 ・19歳で挑んだ第二回万国女子オリンピックで個人総合優勝。 ・日本女性史上で初、陸上でも五輪初(銀・800m)メダリスト。 (織田幹雄選手は同日の数時間後に金メダル獲得) ・世界記録 100m・200m・幅跳びで二回 計4種目 (IOC公認のもの。非公認種目も含めならさらに多く)保持。 ・日本記録は、そのほとんどを更新。 しかし、人見選手が生まれた明治40年(1907年)当事の女子陸上選手とは・・・。 まだ日露戦争の余韻が残るこの時代。 現代の日本の中高生のように、誰かがレールを引いてくれて、 誰かが世話をしてくれて、ただ競技に精進すればいい(それとて大変な努力が必要だが)・・・そんな話は夢のまた夢。 社会背景も決して応援してはくれない。 「女性がショートパンツで人前で競争するなぞ、奇行!世間の恥!」・・とさえ言われた時代。 事実それで引退、競技中断する女性は多々存在した。 また報道のあり方も現在より客観性を欠いていたように思う。 一度良い成績を出すと、新聞等はそれ以上のものを要求し持ち上げる。 そして平凡な結果に終わると罵倒する。 「勝って当たり前」、と好成績である事を強いられていく。 孤独で数奇な宿命を背負っていたのだ。 何度も壁にぶち当たり、まさにもがき苦しみながら、競技で世界に遠征する。 女子スポーツの発展と行進の育成のため、寝ずに働き、走り、跳んだ。 遠征費や後輩の面倒を見るため資金集めにも奔走した。 鉄道や道路が整備されていない時代に、年間200もの講演会に駆け回った。 おそらく蒸気機関車と自転車、徒歩が中心であったろう。 公演の回数を考えると、試合よりはるかに身体にきつい。 律儀な性格は、試合のたびに全国に挨拶、お礼を伝えにも赴いたという。 その結果、わずか24歳で過労死・・・・ ・・・私はもうここまで読んだだけでぬ胸が苦しくなった。 「もっと手を抜けばいいのに・・図々しく、誘いも断ればよかったのに・・・」 しかし、人見絹枝さんは礼儀、真面目さにおいても一切の妥協を自らに許さなかったのである。 もし、環境に余裕のある戦後に生まれていたならば・・・・・ 日本の中に「50年早く生まれてしまった 不遇の天才」なのであった。 筆 37回 野本 順一     その2へ続く

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