No.192 著・小原敏彦 人見絹江 生誕100周年「KINUEは走る」を読んで 2


★ 小原監督と人見絹枝 私は春高に入学した春、同期の松中と体育教官室の掃除を手伝っていた。 そこで小原先生に、『燃え尽きたランナー 人見絹枝の生涯』 大和書房、1981年 を頂いたのがきっかけである。 私は、いまも昔も教科書は読まないが、この「超人列伝」には引き込まれた。 ただ当事は、その栄光の戦跡にのみ興奮して読んだ気がする。 世界記録を何回、日本記録を何種目・・・・という数字に憧れたから。 たかが高校生の私には、栄光の裏にある「光 と 影」はとうてい理解できようはすがなかったのだ。 その10年後のバルセロナ五輪のころ、再び人見絹枝選手の特集をNHKなどで見た。 テレビのエンディングロールに「小原敏彦」の名を見て、誇らしく思ったものだ。 しかしまだ20歳代の私にも、人見選手の孤独の戦いが本当の意味では理解できていなかったと思う。 しかし私も40歳を過ぎて、やっと人並みの経験をしてきた現在、小原監督の著書を拝見して分かるようになった事がある。 私も一社会人として20年近くが過ぎ、様々な軋轢や理不尽な事は毎日のようにある事を知ってきた。 例えば一般的な業務をひとつ「まっとうに」こなすことは、表面には写らない様々な人間の大変な労力が必要である。 スポーツ偉人には、小原先生の著書の「体操の小野 喬」に代表されるように、 尋常なき努力の結果、賞賛を浴び、継続して花道を歩く方々もいる。 そして人見選手のように、自分と、時代と、そして世界と壮絶な戦いを強いられながらも、 夢半ばで手折れてしまう方も在るのだ。 「偉業を成す」には必ずそれ相応の労力、時間、精神、金銭などの 「破格の犠牲」を伴う・・・ 小原先生の「人見絹枝」を読んで、今の私が感じたのはそれである。 ★ 超人の「責任感」 人見絹枝さんや織田幹雄氏の「責任感」や「使命感」は、現在のレベルでは計り知れないものがある。 どんなコンディション(体調)でも途中棄権せず、あきらめず・・・ その選択が正しいか否かは別にして、やはりこの時代の名選手は全てにおいて「一流であること」を貫いたのだと思う。 その精神を代表するコメントが記載されている。 以下本文から ・ ・・・このアムステルダム五輪では、まだ「君が代」を一度も歌っていない。 人見はそれがすべて自分のせいのように思えた。 いまだ日本は二点しか獲得できずにいたのだ。 期待された種目がことごとく大敗した。迎えた8月2日の朝。 会場に向かう車が運河にさしかかると、普段無口な織田(幹雄)選手が 「今日も負けて帰るなら、この河にはまったほうがマシだ!・・・」とつぶやいたが、 言葉を返すものはいなかった。 まるで死を覚悟したような張り詰めた気持ちだった・・・ ・ ・・とある。 まして人見選手は女性なのであるから、途中断念があっても不思議ではない。 人見選手と競った寺尾姉妹などのように、世間体を気にした親からの指示で辞めさせられた例もある。 しかし、人見選手はくじけることも、辞めることもなかった。 最初から「欠場」や「棄権」という選択肢は、彼女には存在しなかったのであろう。 この本の記述にあるだけでも、数え切れないほど打ちのめされ、号泣し、そして立ち上がっている。 アムステルダム五輪の100mに優勝候補ながら予選敗退した後、800m出場を決意する場面から・・・ 以下本文より ・ ・・・「800mの練習はしたことがない。 でも今はそんな事を言っている場合ではない。 どんなになってもいい。 死んだってかまわない!」・・・・ 責任、使命の全てから決して目をそらさず、真正面から受け止めた。 そしてその使命感の強さが、過労で肋膜炎、早すぎる逝去いう最悪の結果を招いたのだ。 肋膜炎・・・・胸膜に炎症が起こり胸水のたまる疾患。 症状は、発熱、胸痛、せき、食欲不振、全身倦怠などで、胸水の貯留量が多くなると呼吸困難を生じる。 診断は、X線検査、CT検査、胸腔穿刺により行い、また治療として化学療法を用い、 さらに呼吸困難には胸水穿刺排除、副腎皮質ステロイド剤が用いられる。 ★ 人見絹江が変えた五輪800m アムステルダム五輪の女子800mの死闘は、世界陸上連盟を動かした。 ラトケ(独)と人見絹枝はゴール後、失神した。 トップのラトケは世界新記録、人見は世界タイ記録であった。 担架で運ばれた二人の姿に、競技役員は驚愕し、動揺した。 人見選手は競技中にスパイクされ、血まみれでもあった。 「・・・・女性にはまだ800mは危険すぎる・・・生死に関わる・・」 その壮絶なレースの結果、次のロスアンゼルス大会からメルボルン大会まで 女子種目から800mは禁止されたのだ。 ★ 運命の「 8月 2日 」 突然この世に時代を飛び越えた天才が生まれ、まさに花火のように大輪の花を咲かせ、はかなく散っていった。 小原監督の著書を読んで、最後に感じた。 その激動の人生は、人間の域を超えた何かによって宿命付けられていたように思えてならない。 アムステルダム五輪 銀メダル          1928年 8月 2日 死去  (阪大病院にて)              1931年 8月 2日 同郷の有森がバルセロナ五輪 銀メダル    1992年 8月 2日 筆 37回  野本 順一

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